米トランプ政権は8月18日、ICC(国際刑事裁判所)の赤根智子所長を制裁対象にしたと発表した。
日本政府は米国に制裁撤回を求めることはせず、「法の支配」の重要性を唱えるにとどまった。
「法の支配」は安倍晋三政権以来の日本外交の柱の一つである。日本は日米関係の悪化という代償を払っても、「法の支配」を貫き通す覚悟があるのか、世界が日本を注視している。
米国のルビオ国務長官は8月18日の記者会見で、今回の赤根氏に対する制裁の理由について、米政府が同意していない政府当局者の捜査、逮捕、訴追にICCが直接関わったことを挙げた。
具体的には、イスラエルのネタニヤフ首相のガザでの軍事行動に対して、ICCが首相の逮捕状を出したことなどが念頭にあるとみられる。アメリカはもともとICCには否定的であり、加盟もしていない。
制裁決定を受けて米財務省のOFAC(外国資産管理局)は、赤根所長の名前をSDN(特別指定国民)リストにのせた。
制裁の主な内容は、①米国内にある赤根氏の資産を凍結②米国人や米企業との取引を原則禁止③米国の金融システムを利用する取引からの事実上の排除④赤根氏本人と家族の米国への入国制限ーなどとなっている。
厳しい欧州の対米批判と日本の腰が引けた声明
これに対してEU(欧州連合)、フランス、ドイツ、オランダなどから強い非難声明が出された。
EUのカラス外務・安全保障政策上級代表は翌日の8月19日、「ICCの独立性、公平性、任務遂行能力は、圧力、威嚇、干渉から自由でなければならない」と述べ、ICCを全面的に支持する考えを表明。
ドイツ外務省は同日、「我々はICCとその所長である赤根智子を支持する。略。ICCを独立した機関として守り、保護することはドイツにとっても極めて重要だ」として、ICC擁護の姿勢を鮮明にした。
さらにフランス外務省は20日、「ICC、その職員、ICCを支援する市民社会組織に対するあらゆる形の脅迫、強制措置を非難する」とアメリカの制裁を厳しく批判した。
一方、日本政府の反応はどうか。高市早苗首相は8月19日、記者の質問に答えて「大変に残念に思っています。略。米国を含む関係国と意思疎通をしながら対応して参ります」と語った。
外務省は同日、報道官談話の形で「我が国は、国際社会における最も重大な犯罪の処罰と撲滅、法の支配の徹底のため、常設の国際刑事法廷であるICCを一貫して支持している。略。今回の措置は大変残念です」と表明。
茂木敏充外相は20日、「我が国は米国に対して様々な働きかけをこれまでも行ってきた」と説明し、そのうえで「国際社会における法の支配を一貫して重視している」などと語った。
ICCの日本人所長がアメリカの制裁対象になったにもかかわらず、日本政府の対応はEUや欧州各国に比べて明らかに腰が引けていた。
これまでのところ、少なくとも公に米国の制裁を真正面から批判することも、制裁を撤回するよう明確に求めることもしていないとみられる。
海外の報道をみると、欧州の厳しい姿勢に対して日本政府の対応は弱腰過ぎると批判する声が少なくない。
中谷元・元防衛相は9月4日、「人権外交を超党派で考える議員連盟」を代表して日本外国特派員協会(FCCJ)で会見し、「日本国民に対する制裁であり、略。法の支配を掲げてきた日本政府として看過できず、政府には、法に基づく職務を遂行した自国民を守る義務がある」との考えを表明した。本来、日本政府は中谷氏のような声明を出すべきだったのではないか。
始まった赤根所長への米制裁、カードすでに使えず
赤根所長に対するアメリカの制裁はすでに始まっている。赤根氏が報道機関とのインタビューなどで語ったところによれば、すでにクレジットカードは使えなくなっているという。
米企業が発行するビザやマスターのカードは使えなくなっているとみられる。欧州企業が発行するカードもあるのですぐに生活に困ることはなくても、これからいろいろと不便なことが起きるのは間違いない。
赤根氏の主要な預金口座がある日本の金融機関はどのような対応を取っているのか。実は、この点が重要かつ微妙な問題を内包している。
現時点で赤根所長の金融取引がアメリカと何らかの接点を持たなければ、制裁対象にはならないと考えられる。
赤根氏が自分の円預金のある日本の銀行からキャッシュカードでお金を下ろしても問題はないだろう。
しかし、米政府は直接の制裁対象に対する「一次制裁」だけでなく、制裁対象と取引する外国企業などに対して「二次制裁」を課すことができる。
つまり米国の制裁対象と取引するならば、直接の制裁対象でない海外企業も、米国の二次制裁の対象になりかねないということだ。
現時点で米政府は邦銀を二次制裁の対象にするとは発表していないようだ。
しかし、邦銀が赤根所長との取引を続けた場合、二次制裁の対象となり、アメリカの金融システムへアクセスできなくなる可能性もある。
そうなれば邦銀にとって極めて大きなダメージになるだろう。実際に、2026年9月に米財務省は制裁対象のイラン関連の金融機関と取引していたと判断したトルコの銀行に対して二次制裁を課している。
金融庁は「個別行の判断」に任せるという姿勢
日本の銀行を監督する金融庁はどのような対応を取っているのか。本来ならば金融庁は、邦銀に対してアメリカとの接点を持たない赤根氏との金融取引については継続するよう、はっきりと要請してもおかしくないはずだ。
しかし、関係者によれば、金融庁はそうした方針を出しておらず、「日本政府による国内法上の制裁対象ではないが、米国制裁を踏まえて金融機関がどのような対応を取るかは、個別金融機関の判断に委ねられている」としている。
すなわち高市首相が米国に制裁の撤回を明確に求めず、「大変に残念に思っています。略」と他人事のような発言でトランプ政権との摩擦回避を図ったように、日本政府は極力表には出ず、金融機関に判断を委ねた格好だ。
このやり方なら万一問題が発生しても、日米両国間の表だった問題に発展することはなく、個別の民間銀行の問題として処理できるからだ。
しかし、日本政府がアメリカの制裁に対する法的、外交的な評価をあいまいにしたまま、金融機関に判断を委ねるのであれば、「法の支配」を行政上の実務問題に矮小化しているという批判を海外から受けかねないだろう。
日本は代償払っても「法の支配」貫徹の覚悟あるか
一方、日本のメガバンクなどは自社のコンプライアンス上からも米国の制裁を無視するわけにはいかない。
表だって無視しなくても、米財務省に睨まれかねないと判断すれば、赤根所長との金融取引を制限する可能性はある。
今のところ米政府は直ちに邦銀を二次制裁の対象にする構えは見せていないとされるが、今後の展開次第では楽観できない。
このため日本政府はいつまでも金融機関の「自己判断」に任せるわけにはいかないと考えられる。
実は今回、米国が問題にしているのは赤根所長だけではない。米国務省は8月20日、「日本及び他の同盟国がICCへの支援を終了することを期待している」とはっきり表明しており、日本はすでに米国の制裁の「当事者」になりつつあるとも言える。
日本政府は「法の支配」を実現するため、自分自身で必要かつ明示的な行動を取ることが求められる。
そうならないよう最大限の努力をするのは当然だが、仮に日米関係がぎくしゃくするというコストを払ってでもやるべき価値があるのではないか。
欧州と日本で異なる「法の支配」の出発点
「法の支配」は自身の立ち位置を鮮明にせず、それでいて自分の正当性を周囲にアピールできる魔法の言葉ではない。
この言葉を生んだ欧州では17世紀以降、国王の大権を制限するため、長い時間と多くの血を流してやっと獲得したものだ。
国家権力を法によって縛るため、支配される側が多大な犠牲を払ってようやく勝ち得た政治制度である。欧州の人々にとって「法の支配」という言葉は極めて重く、何ものにも代えがたい意味を持っていると言えよう。
一方、日本にとっての「法の支配」は欧州とはある意味で真逆の目的から出発している。
日本の「法の支配」は、法律で国民を統治するための政治制度だった。だから明治憲法には権力の行使を制限する「違憲立法審査権」的な条文はどこにも見当たらない。
日本の法律に権力の行使に歯止めをかけるための条項が盛り込まれたのは、やっと第二次大戦後の1946年に公布された新憲法になってからのことだ。今からちょうど80年前のことである。
欧州の歴史が教えるように「法の支配」を確立し、守り育てて行くためには多大なコストを払うことをも覚悟しなければならない。
ICCの日本人所長がアメリカの制裁対象になっている時、アメリカに対して制裁の撤回をはっきりと求めることをしない。
さらに日本の銀行に対して赤根所長との国内ベースの金融取引を維持するようはっきりと要請すべきであるにもかかわらず、「個別行の判断で対応している」と民間銀行に責任転嫁するかのような金融庁の姿勢。こうした態度は到底、「法の支配」の貫徹と相容れるものではないだろう。
日本は外交分野で頻繁に「法の支配」という言葉を使うようになった。始まりは2013年1月の安倍首相のジャカルタでの演説だった。
2014年には安倍首相が「海における法の支配の三原則」を提唱し、2016年のG7伊勢志摩サミットではG7の共通認識となった。
さらに最近はイランがホルムズ海峡の事実上の封鎖に出た際にも「法の支配」という言葉を使ったし、ロシアのウクライナ侵略や関係悪化の著しい中国に対しても、「法の支配」に基づいて問題解決を図るべきだなどと訴えた。今や「法の支配」は日本外交の柱の一つと言って間違いない。
「法の支配」貫徹せずば日本の安全保障に影落とす
ICCの赤根所長は日本政府の支援を直接、間接に求める発言をしている。彼女は政治家ではなく日本の一人の元検察官である。
その赤根氏がたった一人で巨大なアメリカの理不尽な制裁に立ち向かっている。この状況を嵐が過ぎ去るのを待つが如く、優柔不断な姿勢をとり続けるのならば、日本政府の「法の支配」という言葉がいかに軽く、信頼のおけないものであるかを世界に暴露するようなものである。
今、北東アジアを含めて世界中で平和に対する脅威が増している。日本の隣国には中国、ロシア、北朝鮮という核保有国が存在する。
そうした厳しい安全保障環境の下で日本の平和を守るには、まさに言葉通りの「法の支配」が欠かせない。
アメリカが制裁を発表した時、制裁撤回ではなく、「法の支配」の重要性を訴えた日本政府は、「法の支配」を守り抜く堅固な意志と行動をみせなければ、将来の日本の安全保障にも暗い影を落とすことになりかねないのである。
