「平時の有事の円買い」と「本当の有事のドル買い」

円安が止まらない。21日の円相場は1ドル=162円台半ばと1986年以来、約40年ぶりの歴史的な円安水準で推移している。円安というとすぐに「日本の低金利が原因」という声が上がる。

金利差の説明はわかりやすく、円安の“犯人捜し”にはもってこいだからだ。しかし、外国為替相場が金利以外の要因で動くことは少なくない。むしろ円高にしようと利上げしたり、円安にしようと利下げしたりすると、短期的には逆方向に動くことも少なくない。

もちろん現在の歴史的な円安に金利差が影響していないとは言わない。だが、もっと「歴史的な変化」が起きているのではないか。

かつて金融危機などの折、「有事の円買い」がもてはやされたが、2022年2月のロシアのウクライナ侵略以降、有事の円買いの声はパッタリと聞かなくなった。

かわって「有事のドル買い」が目立つ。ウクライナ侵略ではドルが急騰したし、今年2月のアメリカのイラン攻撃の際にも「有事のドル買い」があった。世界は「平時の有事の円買い」から、「本物の有事のドル買い」へ変わりつつある。

目次

2022年までは何度も「有事の円買い」で円が上昇

実際に2022年までは「有事の円買い」がしばしばみられた。2008年9月、アメリカで起きた「リーマンショック」の時には、円相場は7月の1ドル=108円前後から、12月には一気に90円程度まで急上昇した。

さらにギリシアに端を発した金融危機が欧州全体に広がった2011年、円相場は10月31日に1ドル=75円32銭の戦後最高値(終値)を記録した。

2020年初めから感染が本格化した新型コロナウイルスの時には、円相場は19年12月の1ドル=109円程度から、3月上旬には103円前後まで円高・ドル安が進んだ。

日本はアメリカのような強大な軍事力を持っているわけではない。だが、世界最大の債権国であり、世界第3位の経済大国(当時)でもあり、国内の政治や経済、社会は他国に比べて相対的に安定しているとみられていた。

このため円建ての金融資産は「安全資産」と考えられ、世界的な金融危機など有事の際には「緊急の避難先」として円資産に多額の資金が流れ込んだという。

世界はロシアのウクライナ侵略で「本当の有事」の時代に突入

しかし、2022年2月のロシアによるウクライナ侵略以降、「有事の円買い」にかわって「有事のドル買い」が目立つようになった。

ドルがユーロや円など主要6通貨に対してどれだけ強いかを表す「ドル指数(1973年3月=100)」の動きをみると、ウクライナ侵略以降、ドル指数は急上昇し始め、同年9月には114と約20年ぶりのドル高水準を付けた。

その後、2024年にはアメリカの利下げ観測から90代まで下落したものの、2026年2月にアメリカが突然イランを攻撃すると再び上昇し、現在は101前後とほぼドルの独歩高と言える状況になっている。

なぜ「有事の円買い」が、2022年以降は「有事のドル買い」に変わったのか。考えられる理由は、2022年までは紆余曲折はありながらも、第二次大戦後の安定的な世界秩序が続いていたことがあげられる。

たまに起きる「有事」も、本格的な戦争を伴わない、金融危機などの「平時の有事」だった。もちろん金融危機は侮れないが、さりとて本物の戦争のように多くの人の命が奪われるわけではない。

巨大な軍事力はなくても、最大の債権国で経済や政治、社会が安定している日本は、世界で最も安全な金融資産の緊急避難先と考えられたのだろう。

戦後80年続いた世界秩序が「力」で壊され始めた

だが、ロシアのウクライナ侵略は第二次大戦後、80年間続いた国際秩序をひっくり返す「本物の有事」だった。だから世界は驚き、最大の経済大国であり、最大の軍事大国でもあるアメリカのドルが急上昇したのだ。

さらに2026年2月には民主主義や資本主義の後ろ盾だったアメリカ自身が、正式な戦線布告なしにイランを攻撃、最高指導者を暗殺するという異常な事態に陥った。

ここに至ってだれもが戦後秩序の崩壊を実感したに違いない。「本物の有事」に直面した世界の中央銀行や企業、投資家は円ではなく、ドルを緊急避難先に選んだのである。

アジアも例外ではない。いや潜在的な最大のホットスポットの一つかもしれない。中国は台湾への締め付けを一段と強めており、「中国の台湾への武力侵攻は時間の問題」との声さえあがる。いまのところ日中関係には改善の兆しすらみられない。

米中ロという国連の有力な常任理事国、3大核保有国、世界経済の1位(米国)と2位(中国)と8位(ロシア)が、戦後80年間維持してきた世界秩序を力で壊し始めた。

世界は「本当の有事」の時代を迎えようとしており、もはや「平時の有事」の円買いの出る幕はない。円は「本物の有事」で「売られる通貨」になろうとしているようにもみえる。

外国為替相場はその国のファンダメンタルズ(経済の基礎的条件)が決めると、これまで各国の通貨当局は繰り返し強調してきた。ただ、「本当の有事」の時代には「軍事力」もファンダメンタルズになり得る。

原油などのエネルギー資源の多くを輸入に頼る国は、今回、イランが米国への対抗措置として実施したホルムズ海峡の封鎖で深刻な影響を受けつつある。

同様の海上交通の要衝(チョークポイント)は世界中にいくつもある。ロシアのウクライナ侵略で起きたように小麦などの食料の輸入が途絶えることも考えられる。

幸いにも第二次大戦後80年間は、そうした「本当の有事」のリスクをあまり考えなくてすんだが、今後はそうはいかないだろう。

特に日本は中国が圧力を強める台湾海峡や、マラッカ海峡を重要な物資の航路としており、「本当の有事」の影響を強く受ける国の一つと言える。

日本は長い間、「円高」に苦労させられてきた。40年以上前の1985年9月22日、米欧5カ国は「プラザ合意」をまとめ、“人工的”にドルを下落させることになった。

プラザ合意前の円相場は1ドル=240円程度だった。それが1995年4月には3倍以上の円高水準である70円台を初めて付けた。

政府・日銀は円高不況から抜け出すために何度も利下げを実施。その結果、日本経済は未曾有のバブルに突入し、そしてほどなくしてバブルは破裂するのだった。その後、日本経済は30年以上に及ぶ「実質ゼロ成長」に苦しむことになる。

急激な円高を受けて国内の大企業は相次いで生産拠点を海外に移した。中国に工場をつくった企業もかなりの数に上った。最近は自分で工場を持たずに生産を海外企業に委託する「ファブレス」が発達しており、中小企業でも比較的容易に海外で生産できるようになった。

国内の製造業の空洞化が心配される現在、円安になれば日本企業の輸出が増え、円相場も上昇するという図式はもはや過去のものになったのではないか。

さらに言えば日本企業が海外で稼いだ利益の多くは国内に還流せず、海外でドルのまま保有される傾向が強い。最近の「本物の有事」を考えれば、海外利益を円ではなく、ドルのまま保有し続ける動きが加速する可能性がある。

つまり日本にとって円安は、輸出は増えず、輸入原材料や製品の価格を押し上げ、物価上昇に拍車をかけるだけで、「プラスの効果」はほとんど期待できない。

厳しい世界情勢、日米の金利動向、急速に進む日本の少子高齢化など、円安に強力に歯止めをかける材料は当面、何一つ見当たらない、と言ったら言い過ぎだろうか。

「本当の有事」の短期のドル買いと、「本当の有事」の長期の金の購入

今回の「本当の有事のドル買い」には奇妙な現象が起きている。これまで有事の際、ドルの代替資産と考えられてきた金の価格が高水準を維持している。

通常はドルが買われれば、代替資産の金の価格は下がる。金価格は2024年7月の1トロイオンス=2,400ドルから、26年1月には5,500ドル超の最高値を付けた。

その後、米国の利上げ観測などから4,000ドル台に下落したものの、それでも金への投資熱は冷めておらず、金価格は2年前の約1.7倍の高値水準で推移している。

この現象にはいくつかの理由が考えられる。「本当の有事」の勃発で短期的にドル資産を持とうとする動きが強まっているが、同時に長期的に見た場合のドルあるいはアメリカの「危うさ」を警戒して、金の購入を続けているとも考えられる。

つまり世界の中央銀行や企業、投資家は、戦後一貫して世界の基軸通貨の座にあるドルを長期的な資金の避難場所とは考えていないふしがある。すなわち基準通貨であるドルの信認が潜在的に揺らぎ始めているのである。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

元全国紙記者。ワシントン支局時代の2001年9月11日、「同時多発テロ」に遭遇する。その後、アフガニスタン、イラクと続くアメリカのがむしゃらな戦争に今に至る「アメリカのダウントレンドの始まり」を感じた。

目次