「みんなの社会」が「わたしの社会」へ~SNSが変える社会の基本構造

「みんな(集団)」から「わたし(個別)」へ

私たちは今、歴史上最も重要なコミュニケーション(情報)革命のひとつに生きている。この革命は社会の最小単位にとどまっていた「わたし(個人)」を社会の“主役”に押し上げ、社会の基本的な枠組みを「みんな(集団)」から、「わたし」を軸にしたものへ変えようとしている。

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「わたし」はグーテンベルク上回る情報革命の真っただ中に生きている

現代の情報革命を起こしたのはSNSである。これまで社会はみんな(集団)が主役の「みんなの社会」だった。国も、企業も、町内会もみんなの論理で動く。本来、社会で最も大切な存在はだれにとってもかけがえのない「わたし」のはずだ。しかし、自分の考えを広く社会に伝えるすべを持たないわたしは、みんなの中に埋没し、姿の見えない透明人間のような存在だった。社会はわたしのことを真剣に顧みようとはせず、わたしは社会の最小単位としてずっと放置されていた。

SNSはそんなわたしに初めて自分の考えを自由に外部に伝えられる“武器”を与えた。わたしは“大きな声の民”に生まれ変わり、本来の“主役”の座にすわり、みんなの社会を「わたしの社会」へ急速につくり変え始めた。

「わたしの社会」では主要な社会の枠組みがわたしを中心にしたものに変わる。まず生産活動が大きく変化する。みんなの社会では消費者ひとり一人のニーズを製品に反映させるのは夢のまた夢だった。少ない種類の製品を大量生産し、少しでも安く売る「少品種大量生産」が主流だった。

しかし、わたしの社会ではSNSを使えばわたしの好みのデータを瞬時かつ大量に集められる。完全なオーダーメードとはいかないが、ひとり一人の希望をかなり取り入れた製品をつくれるようになった。生産活動はみんなの社会の少品種大量生産から、わたしの社会の「多品種少量生産」へ変わる。少品種大量生産は広大な土地、大きな工場、巨額の資金を必要とするが、わたしの社会の多品種少量生産はそのいずれも必要としない。情報を駆使して個々のニーズに対応する少資源、少エネ、少資金の情報型産業が中心になり、日本経済はその姿を大きく変えるだろう。

資本主義の前提も変わる~「一物一価」が「一物多価」に

「わたしの社会」は資本主義の大前提も変える。例えば「一物一価」の原則だ。同じ製品ならば価格は同じ(一つ)というのがこれまでの経済の常識である。そもそも一人ひとりが買いたくなる「お一人様価格」を計算するのは技術的に困難だった。しかし、今ではSNSを使えば簡単にお一人様価格をはじき出せる。大手ネット通販会社は、顧客の購買データをもとに一人ひとり異なる値段の「お一人様セール」を実施していると言われる。

市場は不特定多数を対象にした単一価格の「みんなのマーケット」から、お一人様のために無数の価格が存在する「わたしのマーケット」へ変わろうとしている。公共事業も変わる。巨額の資金を投じて全国一律の規格の橋や道路を建設してきた従来の「みんなの公共事業」。近い将来、周辺の橋や道路を使う一人ひとりのデータをスマホで収集し、地域の人々が本当に必要とするインフラ整備、すなわちオーダーメード型の「わたしの公共事業」に生まれ変わるだろう。

社会福祉もオーダーメード型になる。マイナンバーカードを使って(もちろん厳格な運用ルールが必要だが)、福祉サービスを受ける人の生活データを集め、一人ひとりのニーズに沿ったきめ細かいサービスを提供する。

そして政治も大きく変わる可能性がある。今の民主主義は議員や政党を選び、彼らに国や自治体のかじ取りを任せる間接民主主義。しかし、SNSを使えばギリシア時代のような有権者による直接民主主義も可能だ。例えば、マイナンバーカードで本人確認した上で、わたし(有権者)がスマホの「投票アプリ」を使って案件ごとに直接投票する。そうすればいつでも国民投票や住民投票を実施できる。

今までは直接民主主義が技術的に不可能という前提で、間接民主主義を採用してきた。しかし、これからは直接民主主義と間接民主主義のどちらが本当に望ましいのか、ギリシア時代から二千数百年続く根本的な問いを真剣に議論する必要が出てくるかもしれない。

社会のリスクが「わたし」に直接降りかかる

「わたしの社会」は良いことばかりではない。3つの大きなリスクを抱えている。第一は、社会のさまざまなリスクが「わたし」に直接降りかかることだ。社会の基本的な枠組みがみんなからわたしに変わり、企業など集団(みんな)の影響力が弱まると、彼らの「セーフティーネット(安全網)」で従業員を守ることが難しくなる。終身雇用や年功序列といった伝統的な雇用制度は、社内の風通しを悪くするなどのデメリットもあるが、わたしを失業などの社会的リスクから守る働きもしていた。セーフティーネットに頼れなくなれば、わたしは自分を自分自身でさまざまな社会リスクから守らなければならなくなる。

第二のリスクは「わたし」の孤立が過度に進むことである。現代に先立つ情報革命に15世紀半ばのグーテンベルクの活版印刷の発明がある。この革命は沢山の書物を印刷することで多くの人が知識を共有できるようになり、みんなが共通の目標のために協働することを可能にした。この力が宗教革命を起こし、その後の市民社会を誕生させる原動力にもなった。グーテンベルクの情報革命は小さなものを集めて大きくする「集団化」のエネルギーを持っていたと言える。

それではSNSによる現代の情報革命はどうか。みんなの社会をわたしの社会に変えつつあるように、大きなものを小さくする強力な分散化のエネルギーを持っている。このエネルギーは国や社会などの集団を細分化し、スパイラル的に小さくする。その結果、みんなから独立したわたしは加速度的に孤立し、完全な「お一人様」になりかねない。その時、社会は細分化され、無数の小さくて同質のグループに変わる。日本は江戸時代、いやそれよりずっと以前から集団を重視する世界に冠たる「みんなの社会」だった。それを否定しかねない「わたしの社会」は日本人にとって生きにくい世の中になることを意味している。

「わたしの社会」は民主主義を機能不全に陥らせる恐れも

そして第三のリスク、これが最も深刻な危険性だが、社会が無数の小さくて同質のグループに変貌することで、民主主義を機能不全に陥らせかねないことだ。民主主義は他者との共通体験や共感が欠かせない。しかし、わたしは一人で社会のすべてを経験することはできない。だから新聞を読んだり、テレビを見たりして他者の経験を共有しようとする。

テレビが真冬の寒い朝、ホームレスの人が路上で凍えている姿を映し出せば、見る人は同情し、何かしてあげたいと思うだろう。その結果、次の選挙では貧困対策に熱心な政党に投票するかもしれない。今の若者は、いや彼らだけでなくもっと多くの人が、新聞やテレビなどのマスメディアとの接触を著しく減らし、世界や国、社会といった広いフィールドでの共感を欠いている。無数の小さくて同質のグループで構成される社会は、やがて民主主義の土台を壊し、民主主義そのものを機能不全に陥らせかねないのである。                   

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この記事を書いた人

元全国紙記者。ワシントン支局時代の2001年9月11日、「同時多発テロ」に遭遇する。その後、アフガニスタン、イラクと続くアメリカのがむしゃらな戦争に今に至る「アメリカのダウントレンドの始まり」を感じた。

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